# 浜田廣介『よぶこどり』を「欲望の三角形」で読み解く
日本のアンデルセンこと、浜田廣介の『よぶこどり』について、ルネ・ジラールの「欲望の三角形」をもとに読み解いていきます。
『よぶこどり』は、りすが畑でたまごを見つけて、ひなをかえして育てていきますが、そのひなが巣から飛び立っていき、終いにはりすがひなを探しに行くという童話です。
ひなが、りすに育てられていくうちに、ある日にひなが、りすの子ではないことを知ります。
ひなは、本当の母親を探しに飛び立ってしまい、終いにはりすの元に帰りません。
りすはあきらめきれず、最後には鳥になって、ひなを探しに行くことになります。
ここで、りす、ひな、そして本当の母親という存在に注目していきます。
# 「欲望の三角形」
ルネ・ジラールは、ミメーシス欲望、すなわち模倣欲望の理論を提唱しており、「欲望の三角形」を明らかにしています。
ジラールは欲望について、行為主体、欲望の対象、そしてこれらを媒介する媒体とを頂点とする三角形を描きます。
欲望を主体と対象を結びつける単純な直線で表した直線的欲望は、欲望本来の姿ではなく、直線的に見える欲望の上には、主体と対象に同時に光を放射している媒体が存在し、この関係が三角形であるとジラールは主張します。
このとき、媒体は主体に対するモデルとしての役割を果たしています。(稲垣保弘『組織の解釈学』白桃書房、pp.285-286)
「欲望の三角形」に照らし合わせると、行為主体を鳥になったりす、欲望の対象をひな、媒体を母親と考えられます。 実際の母親をモデルとして、その母親がひなに向ける愛情を、りすが模倣したと捉えることができます。
# りすと本当の母親はライバル
模倣欲望に導かれる行為によって主体と媒体との距離が縮まっていきます。
これは主体と媒体との差異が小さくなることであり、媒体はモデルではなく障害物としての役割を演ずるようになります。
この主体と媒体の接近、すなわち同質化は、主体にとって欲望の対象自体よりもライバルとしての媒体の存在が問題となります。(稲垣保弘『組織の解釈学』白桃書房、pp.286-287)
『よぶこどり』の終わりに「とうとう、夏のある朝に、りすは、小さな一わの鳥になりました。」とありますが、主体であるりすと、媒体である母親とが同質となったことを意味します。
このとき、主体である鳥になったりすにとって、媒体である実際の母親はライバルと捉えられます。
鳥になったりすは、ひなを産んだ本当の母親の存在を超えて、巣立ったひなと再会したときに、りすがさも本当の母親であると認識してもらえるようにするという読みができると考えられます。